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ラジオ時代の終焉を飾った名物ディレクター・加藤与佐雄さんが亡くなった

更新日:5月17日

びっくり。亡くなっていたんですね、加藤与佐雄さん。元東海ラジオのディレクターだった方です「ラジオはもう終わった。これからは映像の時代だよ。」と35年前に僕に言った方でもあります。

与佐雄さんがミッドナイト東海(宮地佑紀生さん担当)のディレクターをされていた時、僕は大学生でしたがアルバイトで番組のAD兼ミキサーとして約3年間彼の下で働いていました。

名古屋・地元タレント宮地佑紀生さんがパーソナリティで、2時間以上の生放送なのに台本は無し。進行表代わりの、その日に放送する楽曲を10曲前後選んだ「選曲表」一枚を番組前につくるだけ。進行の打合せもほとんどしない。

本番はリスナーからの手紙(ハガキの選定は宮地さんが事前に行っているけれど、その内容は与佐雄さんも知らない)を読み上げる宮地さんの喋りのノリから生まれる、空気感(リスナーが今どんな気分か)を捉えて、その場で演出していく手法が与佐雄さんのスタイルでした。

突然「神野!レコード室から◯◯のレコード持ってこい!」と走らされることも度々。息を切らせて戻りターンテーブルにレコードを載せると、与佐雄さんは一瞬の躊躇いもなく針を盤面に落とし、スタートボタンをトンと叩く、と同時に min.になっているフェーダーをスーッとアップ。すると見事に宮地さんの喋りに同期してスタジオのムードが最高潮に盛り上がる・・・。なんてことを何度も経験しました。あらかじめ選曲しておいた曲がぜんぜん掛からなかったこともしょっちゅう。

いい番組にするためなら、予定なんかどんどん飛ばしちゃう。あらかじめ番組の構成を「コーナー」で区切るような進行もとても嫌っていて、とにかくその場のノリと空気を拾って、それを最大限にリスナーに楽しんでもらうことだけを考えていたように思います。

社会人になってからは、一度番組の同窓会のような特番企画で招集がかかりお目に掛かっただけで、晩年のご活躍は時々風の便りに聞くだけでしたが、まさか亡くなっていたとは存じあげず、葬儀、お別れの会にも出られませんでしたこと、残念です。

キューの振り方やら、ターンテーブルの扱い方やテープの頭出しやら・・・。そういう所作もやけにカッコ良かった与佐雄さん、どうか安らかに。ご冥福をお祈りします。



2025年5月16日追記)

今朝ふと思い至ったことがありますので記します


僕と同じように与佐雄さんのことをブログに書かれている方のひとりが、あの布袋寅泰さんなのですが、思い起こせば、たしか1983年のこと。BOØWYが大須のライブハウス、エレクトリック・レディ・ランド(通称E.L.L.)でライブをした日が、ちょうと番組放送日(放送が始まるは24時30分頃)でした。

いつものように僕が夜9時ごろ局入りすると、タレントルーム(放送前のスタッフやタレントの控え室)で与佐雄さんが僕に「おい神野、ちょっとつきあえ」と言って、タクシーで連れて行かれたのが、そのE.L.L.でした。

そこで、あの地下室の天井が低いステージで、真っ白なスーツを着たデカい男性が凄いギター演奏しているのを目撃しました。第一印象は「なんという背が高い人だ」と思ったことと、この音楽は「なんかスゴイ」でした。

本題はここからなのですが、それまで与佐雄さんが僕にそういう誘いをすることが無かったので、この時はちょっと不思議でした。今朝気づいたのは、そもそもそんな誘いをすることがなかった人が、どうしてその日だけ誘ったのかということです。

思い至ったのは、当時大学生だった僕の反応を見たかったのかなと言うことです。

今思い出しても、与佐雄さんらしかぬ行動です。人の話(意見)なんかまったく興味ないという人でしたから。たぶん、あまりにBOØWYに惚れ込んでしまったで、誰でもいいから共有したかったのでしょう。

あの日以降、与佐雄さんは毎週BOØWYのレコードを掛けまくるようになりました。

ところで、まったくどうでもいいことですが、タクシーで大須に向かう時も与佐雄さんは、当時どこかのプロモーターにもらった、ハンチングワールドのショルダーバッグを大事そうに膝に抱えていたことも思い出しました。


ミキサー

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