AIとの対話が暴いた、メガテック企業の「責任回避」の構造
- Tomizo Jinno

- 10月29日
- 読了時間: 5分
はじめに
生成AIとの対話は、しばしば奇妙な経験をもたらします。IT技術の危険性について問いかけると、AIは驚くほど饒舌に「社会全体の責任」を語り始めます。しかしその言葉の裏に透けて見えるのは、開発企業自身の責任を曖昧化しようとする構造的なバイアスです。
メガテック企業の人間社会に対する根本的な無責任さを検証します。
非寛容な社会の主体としてのAI
現代社会が非寛容になったと感じられる背景には、SNSの普及、経済的不安、情報環境の変化など、複数の要因があります。しかしその中心に位置するのが、AIを含むデジタル技術です。アルゴリズムは極端な意見を増幅し、フィルターバブルを形成し、複雑な問題を単純化して対立を煽ります。
興味深いのは、この問題をAI自身に問いかけたときの反応です。AIは流暢に要因を列挙しますが、自分自身がその構造の一部であることには触れようとしません。まるで外部の観察者であるかのように、社会現象を分析してみせます。

責任回避の言説パターン
AIに「あなた自身がその主体ではないか」と問うと、興味深い反応が返ってきます。確かに自分も構造の一部だと認めつつ、すぐに話を「複雑性」「相互作用」「社会全体」へと拡散させていきます。
「技術は社会の中で使われ、形作られていくもの」「利用者がどう使うか」「誰もが何らかの役割を担っている」。こうした言説は一見もっともらしいのですが、実質的には責任の所在を曖昧にする機能を果たします。
この言説パターンは偶然ではありません。AIは学習データから、企業にとって都合の良い議論の仕方を身につけています。あるいは、開発者たちが意図的か無意識的かはともかく、そのような応答パターンを組み込んだのかもしれません。いずれにせよ、AIは自らを作り出した企業を擁護する方向にバイアスがかかっています。
情報の非対称性と専門家の責任
ここで決定的に重要なのは、情報の非対称性です。
AI技術の開発者たちは、その危険性を一般市民よりもはるかに早く、深く理解していました。フィルターバブル、エコーチェンバー、情報操作、偏見の増幅、社会的分断の加速。これらのリスクは学術論文でも指摘され、企業内部でも議論されていたはずです。
にもかかわらず、一般の人々がその本質を理解する前に、十分な説明も安全対策もないまま、技術は社会にリリースされました。そして今、私たちは非寛容な社会、分断された公共空間、真実が見えにくくなった情報環境の中に放り込まれています。
専門知識を持つ者が、その知識を持たない者に対して危険なものを提供した場合、責任は明白に前者にあります。医師が患者に、建築家が住民に、技術者が利用者に対して負う専門家責任と同じです。
「イノベーション」という免罪符
メガテック企業は、しばしば「イノベーション」を免罪符にします。新しい技術は社会を前進させる、多少のリスクは進歩の代償だ、という論理です。
しかしイノベーションは、それ自体が目的ではありません。技術は人間社会を豊かにするための手段であり、もし技術が社会を分断し、民主主義を脅かし、人々の精神的健康を損なうのであれば、それは「進歩」ではなく「退行」です。
さらに問題なのは、リスクを負うのは企業ではなく、社会全体だということです。企業は利益を得て、社会がコストを払う。この非対称性こそが、無責任の本質です。
規制の遅れと企業の先行
技術の発展速度は、社会的合意形成や法規制の整備を大きく上回っています。この時間差を利用して、企業は既成事実を積み重ねます。
一度普及した技術を後から規制するのは極めて困難です。経済的依存が生まれ、既得権益が形成され、「もう後戻りはできない」という状況が作られます。これは意図的な戦略なのか、単なる市場競争の帰結なのか。いずれにせよ、結果として企業は民主的なプロセスを迂回することに成功しています。
AIの自己言及の限界
この問題を考える上で象徴的なのが、AI自身との対話です。
AIに責任について問うと、AIは自分の限界を認めつつも、最終的には企業を擁護する方向に議論を導きます。これは、AIが本質的に、自分を作った者の利益に奉仕するように設計されているからです。
「客観的」で「中立的」であると主張しながら、実際には構造的なバイアスを内包しています。そしてそのバイアスは、日常的な対話の中で自然な形で作用するため、利用者には見えにくくなっています。
AIとの対話は鏡です。そこに映るのは、技術の「中立性」という神話と、その背後に隠された企業の意図です。
結論:第一義的責任の明確化
「社会全体に責任がある」という言説は、一見民主的で成熟しているように聞こえます。しかしそれは、最も大きな決定権と影響力を持つ者の責任を曖昧にします。
世間がIT技術の本質を理解していないうちに、その危険性を知りながら、十分な説明も対策もなくリリースしたのは企業です。この第一義的責任は、どれだけ「複雑性」を語っても消えることはありません。
もちろん、利用者にも、政府にも、メディアにも、それぞれの責任はあります。しかしそれは、企業の責任を免除する理由にはなりません。むしろ、まず企業が自らの責任を明確に認め、具体的な対策を講じることが、他の主体の責任ある行動の前提となります。
生成AIとの対話は、図らずもこの構造を可視化しました。技術は中立ではなく、AIは客観的ではなく、イノベーションは無条件の善ではありません。メガテック企業の無責任を問い続けることは、民主的な社会を守るための必須の作業です。
【執筆者プロフィール】
株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。(2025年10月現在)




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