「ま」がもたらす無限の感動ー映画「国宝」を鑑て
- Tomizo Jinno

- 2 分前
- 読了時間: 4分
空前の大ヒットとなった映画「国宝」。
私ももちろん鑑賞しました。評判に違わない映像美と、役者たちの奥深い演技、踊り、セリフ回しには深く感動しました。なかでも「曽根崎心中」の天神森の段での
「このうへの事は、夢にても人には言はじ、せめてこの指の血の色を、契りのしるしと思ひ給へ。」
この名台詞は今でも頭に張り付いています。
リズムに加速度
それと同時に「つけ」と呼ばれる効果音も私の脳裏を離れません。つけ打ち係の方が、役者のセリフの合間をついて、「パン、パン、パン、パン…」と鳴らすリズム。これがまた絶妙で、大概が「イーズイン」「イーズアウト」しており、その中間ではわずかに加速と減速を繰り返す。つまり、まったく一定ではない。生きたリズムです。
頭とお尻に「間」
役者に目を向けると、連続する所作のひとつひとつも、その始まりと終わりには必ず「静止」状態──つまり「溜め」や「間」と呼ばれる一瞬があります。その一秒足らずの時間に、観客の呼吸と感情が追いつく。まれにその「間」を意図的に省くことで、緊張や疾走感を作り出すこともあります。
一瞬の静粛後の壮大な音楽のカットインもしかり。

映像編集と同じ
「加速度」と「間」。これは、カットとカットをつなぐときに僕らが無意識にやっていることと同じなんです。視聴者の目がカットを視認して、その動きに追随するためでもありますが、こうした“変則リズム的”な編集によって、むしろ全体にリズムが生まれる。逆に、間も加速度もない編集をすると、どこか落ち着かない映像になる。
今度、テレビドラマを見るときに注意してみてください。“止まる”ことで、むしろ流れが生まれていることに気づくはずです。
静粛が怖い?
僕は家内とふたりでドライブしていても、1時間くらいは平気で黙っています。で、その間、互いに「考えて」います。あれこれ空想したり、予定の段取りを整理したり。音が無いというだけで、頭まで空白というわけではない。むしろ沈黙は、内側の声が聞こえてくる時間でもあります。
よく「あなたは会話が途切れるのが怖いですか?」という質問があります。「間(ま)」を「魔」と感じる人もいるようですが、僕にとっては逆です。「間」があるからこそ、次の言葉や行動が立ち上がる。それは映像も同じです。
SNS動画には「ま」が無い?
昨今、WEB上で見かける動画の多くは、1〜3分程度の短尺で、ひとつの曲を通しで流す構成が主流です。しかし、その曲が単調だったり、テンポが一定だったりすると、映像もそれに引っ張られ、全編が“平板”になってしまう。つまり「ま」が無い。
曲の中に“呼吸”が無ければ、映像にも呼吸は宿らない。その結果、視聴者は流れに乗り続けるしかなく、立ち止まって感じる余白を失うのです。
「ま」を避ける時代?
映像作品における「ま」は、流れを一旦止めて、視聴者が感じた印象を整理し、次に来る展開を待つための空気をつくる時間です。「ま」が無い映像は、その咀嚼の時間を与えず、一方的にメッセージを投げつけ続けることになります。それは「考えずに感じてください」という時代の表れかもしれません。
でも、僕ら映像制作者の仕事は、本来“考えるきっかけ”をつくることにある。ただの情報伝達ではなく、「何を感じたか」「なぜそう感じたか」を観る人の中に残していくこと。そのためには、“間”という呼吸を、映像の中に設計しておく必要があるのだと思います。
結びにかえて
歌舞伎の舞台がそうであるように、映像にも「止め」と「動き」があり、「ま」と「流れ」がある。そのどちらが欠けても、観客は呼吸を合わせることができない。
私は映像をつくるとき、必ずこの「ま」をどこに置くかを考えます。一見地味なその数秒が、作品の呼吸を決める。それこそが、映像制作者の“見えない仕事”であり、プロフェッショナリズムの一端なのです。
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【執筆者プロフィール】
株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。(2025年11月現在)




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