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生成AIによる映像制作の行方― 評価されているのは「誰が語っているか」

生成AIを用いた広告映像が、世界的な企業を巻き込みながら賛否両論を生んでいます。



日本経済新聞が報じたマクドナルド、コカ・コーラ、GUESSなどの事例は「炎上ニュース」ではありません。ここには映像というメディアが、いま何を前提に受け取られているのか、そして生成AIがその前提をどのように揺さぶっているのかが、極めて分かりやすい形で現れています。

映像制作プロデューサーの立場から、生成AI映像が拒絶される理由、受け入れられる条件、そして今後、映像制作に何が求められていくのかを整理します。


ソリに乗って空を飛ぶサンタクロース


1. 反発の正体は「AI嫌悪」ではなく、違和感の重なり


日経の記事を読むと、消費者の反発は「AIを使ったから」という単純な理由ではありません。多くのケースで視聴者は、視聴中あるいは直後から「AIっぽさ」や「どこかおかしい感じ」を感知しています。

重要なのは、そこで問題になっているのが「AIかどうか」そのものではなく、複数の違和感が同時に立ち上がることです。実際には、複数の違和感が同時に発生したときに、否定的評価が表面化しています。


視覚的・身体的違和感

人物が不気味に見える、物理的整合性が崩れている、編集の質が低い。これらはすべて、

映像は現実の延長にある

という、視聴者が長年培ってきた感覚とのズレです。

生成AIは写実性を高めれば高めるほど、人間の持つ「常識チェック」に引っかかりやすくなります。小さな破綻が積み重なると、映像は物語としてではなく、技術的な欠陥探しの対象に変わってしまいます。


文脈的・文化的違和感

マクドナルドの事例で特に問題になったのは、クリスマス、災難、避難所という要素の組み合わせです。ここで拒絶されたのは、AI以前に、

その物語を語ってよいのか

という問いでした。

ただし、AIが制作に関与していることで、

  • 誰がこの判断をしたのか分からない

  • 責任主体が見えない

という印象が増幅し、批判が一気に可視化されたと考えられます。



倫理的違和感

コカ・コーラやファッション広告に向けられた「雇用を奪う」「人を使えたはずだ」という批判は、映像の出来とは独立した評価軸です。

特に大企業の場合、

生成AIを使う必然性がどこにあるのか

が説明されないと、合理性そのものが不誠実さとして受け取られます。



2. 視聴者は制作背景を知って評価しているわけではない


ここで重要なのは、視聴者は映像の制作背景を事実として把握しているわけではない、という点です。

しかし視聴者は、無意識のうちに、

  • これは企業が責任をもって作った映像だろう

  • それなりの判断や手間が投入されているはずだ

  • 誰か人間がこの表現を引き受けているだろう

といった制作前提を推定しています。

映像は、

内容そのもの+想像された「納得できる制作前提」

として受け取られているのです。

生成AIの使用が後から明らかになったときに生じる違和感は、AIそのものよりも、

視聴中に成立していたはずの前提が崩れること

によって引き起こされます。



3. この状態が続くと、評価の足場が揺れ始めます


生成AI制作が不可視のまま増え続けると、視聴者は次第に、

  • 自分が何を前提に見ているのか

  • その前提が信じていいものなのか

を確信できなくなります。

結果として評価は、

  • 感じたあとに補正されるもの

ではなく、

  • いつ否定されるか分からないもの

へと変わります。

人々は無意識に、

この感動、信じていいのか?

という保留を挟むようになります。



4. 評価軸は「意味」から「機能」へと滑ります


評価が不安定になると、映像は次第に、

  • 感動したか

  • 何を語っているか

よりも、

  • 役に立ったか

  • 邪魔にならなかったか

で判断されやすくなります。

広告や説明動画としては合理的ですが、映像文化としては確実に痩せていきます。



5. では、生成AI映像はどうすれば受け入れられるのか


日経記事にある「継続されている」「効果を上げている」事例から逆算すると、条件は明確です。

  • フィクション性や抽象性が高く、現実と切り離されている

  • AIを使う必然性が視聴者に説明不要で伝わる

  • 人間の判断や演出が前面に残っている

共通しているのは、

AIが語り手になっていない

という点です。



6. 本質的な問い:「この映像は誰の声か」


生成AI映像をめぐる評価の分かれ目は、最終的にここに集約されます。

この映像は、

誰が、何を引き受けて語っているのか

映像は語り手の存在を前提とするメディアです。

生成AIは、その語り手を透明化してしまう危険をはらんでいます。だからこそ、技術が進歩するほど、

  • 人間の判断

  • 倫理的な線引き

  • 表現としての覚悟

が、以前よりも強く問われます。



結論:プロデューサーに残された仕事はむしろ増えている


生成AI映像が拒絶されるのは、AIだからではありません。

  • 誰の声なのか分からない

  • どこまで本気なのか分からない

  • 誰が責任を持つのか分からない

という不透明さが映像に残るときです。


逆に言えば、その不透明さを人間の判断で引き受け続ける限り、生成AIは表現の選択肢として使われ続けます。

生成AI時代において、映像制作プロデューサーの役割は縮小しません。むしろ、

誰が語っているのかを可視化し、誰が責任を引き受けているのかを設計する

という、最も本質的な仕事が、これまで以上に求められていくと考えられます。


生成AIによる映像制作の行方は、技術の進化ではなく、その映像の語り手、つまり主体的責任者を、誰が引き受け、どのように明示していくのかに掛かっていると言えます。 【関連記事】 映像制作会社と生成について


【執筆者プロフィール】

株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。

株式会社SynApps 会社概要はこちら → [当社について]   [当社の実績]

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