生成AIによる映像制作の行方― 評価されているのは「誰が語っているか」
- Tomizo Jinno

- 20 時間前
- 読了時間: 5分
生成AIを用いた広告映像が、世界的な企業を巻き込みながら賛否両論を生んでいます。
日本経済新聞が報じたマクドナルド、コカ・コーラ、GUESSなどの事例は「炎上ニュース」ではありません。ここには映像というメディアが、いま何を前提に受け取られているのか、そして生成AIがその前提をどのように揺さぶっているのかが、極めて分かりやすい形で現れています。
映像制作プロデューサーの立場から、生成AI映像が拒絶される理由、受け入れられる条件、そして今後、映像制作に何が求められていくのかを整理します。

1. 反発の正体は「AI嫌悪」ではなく、違和感の重なり
日経の記事を読むと、消費者の反発は「AIを使ったから」という単純な理由ではありません。多くのケースで視聴者は、視聴中あるいは直後から「AIっぽさ」や「どこかおかしい感じ」を感知しています。
重要なのは、そこで問題になっているのが「AIかどうか」そのものではなく、複数の違和感が同時に立ち上がることです。実際には、複数の違和感が同時に発生したときに、否定的評価が表面化しています。
視覚的・身体的違和感
人物が不気味に見える、物理的整合性が崩れている、編集の質が低い。これらはすべて、
映像は現実の延長にある
という、視聴者が長年培ってきた感覚とのズレです。
生成AIは写実性を高めれば高めるほど、人間の持つ「常識チェック」に引っかかりやすくなります。小さな破綻が積み重なると、映像は物語としてではなく、技術的な欠陥探しの対象に変わってしまいます。
文脈的・文化的違和感
マクドナルドの事例で特に問題になったのは、クリスマス、災難、避難所という要素の組み合わせです。ここで拒絶されたのは、AI以前に、
その物語を語ってよいのか
という問いでした。
ただし、AIが制作に関与していることで、
誰がこの判断をしたのか分からない
責任主体が見えない
という印象が増幅し、批判が一気に可視化されたと考えられます。
倫理的違和感
コカ・コーラやファッション広告に向けられた「雇用を奪う」「人を使えたはずだ」という批判は、映像の出来とは独立した評価軸です。
特に大企業の場合、
生成AIを使う必然性がどこにあるのか
が説明されないと、合理性そのものが不誠実さとして受け取られます。
2. 視聴者は制作背景を知って評価しているわけではない
ここで重要なのは、視聴者は映像の制作背景を事実として把握しているわけではない、という点です。
しかし視聴者は、無意識のうちに、
これは企業が責任をもって作った映像だろう
それなりの判断や手間が投入されているはずだ
誰か人間がこの表現を引き受けているだろう
といった制作前提を推定しています。
映像は、
内容そのもの+想像された「納得できる制作前提」
として受け取られているのです。
生成AIの使用が後から明らかになったときに生じる違和感は、AIそのものよりも、
視聴中に成立していたはずの前提が崩れること
によって引き起こされます。
3. この状態が続くと、評価の足場が揺れ始めます
生成AI制作が不可視のまま増え続けると、視聴者は次第に、
自分が何を前提に見ているのか
その前提が信じていいものなのか
を確信できなくなります。
結果として評価は、
感じたあとに補正されるもの
ではなく、
いつ否定されるか分からないもの
へと変わります。
人々は無意識に、
この感動、信じていいのか?
という保留を挟むようになります。
4. 評価軸は「意味」から「機能」へと滑ります
評価が不安定になると、映像は次第に、
感動したか
何を語っているか
よりも、
役に立ったか
邪魔にならなかったか
で判断されやすくなります。
広告や説明動画としては合理的ですが、映像文化としては確実に痩せていきます。
5. では、生成AI映像はどうすれば受け入れられるのか
日経記事にある「継続されている」「効果を上げている」事例から逆算すると、条件は明確です。
フィクション性や抽象性が高く、現実と切り離されている
AIを使う必然性が視聴者に説明不要で伝わる
人間の判断や演出が前面に残っている
共通しているのは、
AIが語り手になっていない
という点です。
6. 本質的な問い:「この映像は誰の声か」
生成AI映像をめぐる評価の分かれ目は、最終的にここに集約されます。
この映像は、
誰が、何を引き受けて語っているのか
映像は語り手の存在を前提とするメディアです。
生成AIは、その語り手を透明化してしまう危険をはらんでいます。だからこそ、技術が進歩するほど、
人間の判断
倫理的な線引き
表現としての覚悟
が、以前よりも強く問われます。
結論:プロデューサーに残された仕事はむしろ増えている
生成AI映像が拒絶されるのは、AIだからではありません。
誰の声なのか分からない
どこまで本気なのか分からない
誰が責任を持つのか分からない
という不透明さが映像に残るときです。
逆に言えば、その不透明さを人間の判断で引き受け続ける限り、生成AIは表現の選択肢として使われ続けます。
生成AI時代において、映像制作プロデューサーの役割は縮小しません。むしろ、
誰が語っているのかを可視化し、誰が責任を引き受けているのかを設計する
という、最も本質的な仕事が、これまで以上に求められていくと考えられます。
生成AIによる映像制作の行方は、技術の進化ではなく、その映像の語り手、つまり主体的責任者を、誰が引き受け、どのように明示していくのかに掛かっていると言えます。 【関連記事】 映像制作会社と生成について
【執筆者プロフィール】
株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。




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