オーラはカメラに写らない
- Tomizo Jinno
- 2016年1月26日
- 読了時間: 4分
更新日:4月17日
映像屋は精神論を避ける
映像(ムービー)屋の多くは創作物に関する精神論的な論議に水を差すのが好きです。
なぜか。
人の内面(精神)はカメラに映らない
と考えるから。
そもそもこの論議から平行線は始まります。
写真カメラマンや紙面デザイナー系の演出家は、映像制作の打ち合わせの席でも割と日常的にこれ(精神論)を論じます。僕らと違って映像にそれが映ると考えているようなのです。ムービー業界も本編映画関係者はそう考えている人が多いように思います。
平面には精神論は描きこめる
たしかに、時間軸が無い(瞬間)の平面では1点の写真に+見出し+本文で「精神」(哲学的に捉えた無形の価値観?)を封じ込めることができます。
時には文章なし、1点の写真だけで精神を感じとらせることさえできます。
けれども、それは写真という媒体が、見る側の恣意に任せてそこにいつまででもあるという特性をもつからです。そのページや紙面を開いている限り、その写真は逃げては行きません。じっくり観察できます。
ムービーは時間の中で感じとる
ところが、ムービーのワンカットはほんの数秒から、十数秒が関の山。で消えていきます。もちろん1カットを長々と見せるのは創作としてアリですが、一定のリズムで進行しているムービーの中に「ここは精神を感じてもらいたいから30秒ワンカットで行こう」なんて手は、よほどの事情がない限り使えません。音楽やナレーションによって映像に情報が付加され、次の瞬間には別な情報をもたらす映像に切り替わるムービーというのは、視聴者が1カットを咀嚼解釈する時間を与えず、連続性やストーリーの中で「精神」を感じ取ってもらえるように演出されることがほとんどです。
少し話が逸れましたので戻します。
映像に感情は写りません。
心の中で泣いている笑顔というものがあるとすれば、「泣」の表情がその笑顔にカタチとなって現れていなければ、ただの笑顔です。例えば目が潤んでいるなど、具体的な陰りが見てとれれば、視聴者の多くは「心で泣いている笑顔」として認識するでしょう。
ところが、人間の表情というのは内面(精神)をカタチに表すとは限ら無いし、カタチにしたところでカメラでは捉えきれ無いような小さな差異しか表出しないから、それがカタチになるほどの表情というのは、舞台演出のようでリアリティが無い・・・と現代の多くのムービー屋は考えます。
流れの中に意図を盛り込むムービー
多くのムービーの場合、目が潤んでいるとか口が歪んでいるという表情を演者にさせなくても、シナリオの流れやカット割りによって、視聴者が「笑っているけれど、ここは心で泣いているよね」と感じるように仕組みます。
ひとつの精神を表すのにはけっこうたくさん時間が要る
そして、その情感や価値観は1本のムービーの中に、そう多くは盛り込め無いものでもあります。現実の人間は非常に複雑で矛盾した感情や意見を持つものですが、映像作品を作り上げようとするとき、往往にしてそこをリアルにシナリオ化、映像化してしまうと、あまりに普遍的で平坦な人間像となり、何が言いたいムービーだかわからなくなってしまうからです。
矛盾しているけれど真実
現代はリアリティが大事と書きながら、なんだか矛盾していますが、表現物というものは本質的に、現実通りでは芸も何も無いものになってしまうもので、やはりムービー作品も、現実を恣意的に切り取ってデフォルメしたものであることは変わりないのです。
壮大な虚構はいいが、ディテールはリアルに、という物語系創作物の大原則はここにも生きているんですね。
「はじめから言ってね」
だからね、ムービーの場合、そこから感じ取ってもらいたい精神は、1カット、1シーンの映像で表しているわけではなく、全体を通して醸し出そうとしているわけなので、「こういう面もある」「ああいう面もある」という風に精神演出を追加したいと言われると、全体を全部組み替えるほどの労力が要るので、ならば初めから言ってね、ということであります。

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