DXが単なるIT導入に終わる背景 - 映像が加担する誤謬
- Tomizo Jinno

- 10 時間前
- 読了時間: 4分
現代社会では「DX」という言葉を聞かない日はありません。しかし、その言葉がもつ本来の定義と、実社会が実行しているDXの実態には大きな乖離があります。
実はこの問題は、抽象的な概念や戦略を視覚化しようとする時、「目に見えない本質」は「目に見える象徴的な断片」に置き換えざるを得ないという「映像の宿命」と、全く同質な原因に基づいていいます。
「DX」を定義する絵とは
「DX」は、IT技術を活用してビジネスモデルそのものや企業文化を変革し、競争優位性を確立するという長期的な戦略やプロセスを指します。
しかし、巷で「DX推進」と謳われる事例を見ると、単に「ペーパーレス化しました」「クラウドサービスを導入しました」といった、ITを導入しただけのデジタル化で終わっているケースが目立ちます。
DXの本当の成果を求めるべきだという立場から見れば、それはDXではなく、単なるデジタル化です。しかし、一旦世間に広まったこのDXのイメージに対し、今さら定義の厳密さを主張しても、なかなか社会には響きません。そもそも「DX」を絵に描くとどういう絵になるのでしょう?

「映像の宿命」が変革の本質を矮小化する
ここで、抽象的な概念を視覚化する際の「映像の宿命」について、具体的に説明します。
ニュース番組などの短いVTRで、ある企業の「DX成功事例」を報道するとしましょう。制作者は、時間的制約から、最も分かりやすい象徴的な画に頼らざるを得ません。その結果、映像は以下のような視覚的な断片として切り取られます。
社員がタブレットを持って工場をチェックしている様子。
Web会議システムを使ってリモートワークをしている社員の様子。
このような数カットの短いカット割りは、DXの本質である「競争優位性を確立した新しいビジネスモデル」や「企業文化の変革」といった、目に見えない戦略やプロセスを直接捉えることはできません。映像が捉えられるのは、あくまで「最新のITツールを使っている状況」という、表面的な行動や手段に過ぎないのです。
この「映像が捉えられる範囲の限界」が、次の結果を招きます。
定義の矮小化
厳密なDXの定義(戦略・変革)が、映像によって提示された分かりやすいイメージ(ツール・手段)に置き換えられてしまう。
誤った満足
広く浸透した映像イメージが、「IT導入=DX達成」という曖昧な「なんとなくの理解」を社会に定着させてしまう。
その結果、多くの企業が変革の本質を見誤り、表面的なIT導入で満足してしまいます。もちろん多くの賢明な経営者はこの罠に気づきますが、資金力の弱い企業はむしろ「言い訳」を手にします。
映像は、切り取った数カットによって、本質的な議論を阻害し、誤った理解を助長する嘘つきの共犯者となるのです。
ナラティブ(物語)が伝える「変革の本質」
DXの本質は、目に見える「ツール(手段)」ではなく、目に見えない「ビジネスモデルの変革(目的)」にあります。
映像がこの本質を伝えるためには、単にITツールを使っている絵を見せるのではなく、以下の物語の要素を追う必要があります。
Before(危機)
旧来のシステムで苦しむ現場の具体的な問題(顧客満足度の低下、非効率な業務、疲弊する社員)。
Transformation(変革)
新しい技術やデータを活用し、経営層がリスクを取り、文化やルールを変えていく意思決定のプロセス。
After(成功)
変革の結果、顧客や社会に対してどのような新しい価値を提供できるようになったか(社員が本質的な業務に集中できるようになった姿)。
このように、映像が「過去から未来へ至る変革の物語」を描くとき、視聴者は初めて「ああ、DXとは単なるIT導入ではなく、この会社が生まれ変わるための覚悟とプロセスだったのか」と、その本質的な理解に近づくことができます。
まとめ
残念ながら映像は端的にすればするほど嘘つきになります。しかし、言葉が定義する「概念」と映像が映す「現実」のズレは、シナリオ(ナラティブ)の力があれば埋めることができるものです。
こうした映像がもつ本質的な危うさと力については、これからもこのブログを通じて発信していきたいと考えてきます。
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株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。(2025年12月現在)




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