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タイパが覆い隠す読解力の低下という課題


タイムパフォーマンス(タイパ)という言葉は、現代、特にZ世代の行動様式を説明するために頻繁に用いられています。これは従来の「コストパフォーマンス(コスパ)」に倣い、時間を合理的な「パフォーマンス」という尺度で捉えることで、彼らの行動を理解し、さらには肯定的に位置づけようとする意図が見て取れます。この意図は、Z世代の当事者だけでなく、彼らを理解しようとする組織社会の管理者層にも共通しているようです。タイパという言葉が、彼らの行動を合理的かつポジティブに解釈できるため、広く受け入れられているのでしょう。


しかし、私がインターネット上で目にするコミュニケーションの現状は、残念ながらその裏側にある深刻な問題を浮き彫りにしています。Yahoo!知恵袋やニュース記事のコメント欄での「すれ違い」や、構成も意図も希薄なインパクト重視の動画コンテンツが再生数を伸ばしている現象は、読み手の読解力や書き手の文章力の著しい低下を示唆しているように感じます。これらの傾向はインターネットに限らず、日常のコミュニケーション全体にまで拡散しているのではないでしょうか。

私は、「タイパ」という言葉が、こうした「読解力」や「文脈理解力」の低下という、耳の痛い現実から目を背けさせるための「免罪符」のような役割を果たしている可能性を懸念しています。


タイムパフォーマンスが覆い隠す現代社会の課題
倍速再生

読解力・文脈理解力低下という「現実」


私は最近、タイパという言葉で覆い隠されている、より深刻な問題に気づきました。それは、長らく指摘されてきた日本人の読解力の低下が、Z世代のみならず、一般社会やビジネス全般において、すでに現実的な問題として顕在化しているということです。


タイパ重視の行動として、「キーワード読み」や「倍速視聴」が挙げられます。これらの行動は一般的なタイパ理論で説明されると納得できるかもしれませんが、実は「読解力」や「文脈理解力」の低下によっても十分に説明がつくのです。


読解力が低いと、文章全体の論旨や行間を正確に読み解くことが困難になります。そのため、かろうじて知っているキーワードを拾い集め、それらを自身の既知の知識や論理に無理やり当てはめて「わかったつもり」になることがあります。これは、深い理解には至らない表層的な情報処理であり、真の意味での学習や思考には繋がりません。


同様に、映像コンテンツにおいても、ストーリーの展開や登場人物の感情、演出の意図など、映像が持つ文脈全体を読み取る力が不足しているため、視聴者は個々の「絵」や「音」の断片に意識が向きがちになります。「知っている俳優が出ている」「かっこいい映像だ」「すごいエフェクトだ」といった、個々の印象的な要素に飛びつき、それらの印象でコンテンツ全体を評価してしまうのです。期待した刺激が得られなければ、すぐに次のコンテンツへと移ってしまう行動も、この文脈理解の困難さと無関係ではありません。


昔から「速読」という技術は存在しますが、それは国語に対する熟練と、社会常識というデータベースがあった上で、訓練して初めて可能になるものです。


つまり、タイパを理由に行動する人は、情報全体を構造的に理解したり、複雑な文脈を読み解いたりすることに多大な精神的ストレスを感じている可能性があります。このストレスを回避するために、無意識のうちに負荷の少ない情報処理、すなわちキーワード読みや倍速再生を選んでいるとは考えられないでしょうか。



「情報量の達成」という切実な欲求


この行動の根底には、「情報量の達成」という切実な欲求も存在します。現代は情報が爆発的に増加し、常に新しい話題やトレンドが生まれる社会です。Z世代にとって、これらの情報に触れ続けることは、ある種の「ノルマ」のように感じられている可能性があります。「これだけの情報量には目を通しておかなければ、時代に乗り遅れてしまう」「友人の会話についていけない」という潜在的なプレッシャーが存在するのです。


読解力や文脈理解に課題がある中で、膨大な情報を前にすると、人は圧倒され、無力感を覚えることがあります。しかし、高速で読み飛ばし、多くの情報に触れることで、「自分はこれだけの情報を処理できた」という「情報処理量の達成」、ひいては自己効力感を得ている可能性があります。これは、深い理解を伴わなくても、情報に「対処できた」という感覚をもたらします。


このように、タイパ行動は、単なる時間効率の追求ではなく、情報過多な社会で埋もれないための、ある種のサバイバル戦略なのです。そして、スマートフォンの長時間利用も、この「情報量の達成」という目標を果たすための行為であり、彼らが直面する情報環境への適応の結果であると考えるべきです。


読解力とメディア選択
情報量の達成

「タイパ」という言葉が覆い隠す社会の課題


「タイパ」という言葉は、Z世代の行動を合理化し、ポジティブに捉えることで、社会全体の読解力低下という本質的な課題から目を逸らさせる機能を持ってきました。合理的な言葉で飾り立てることで、あたかもZ世代が自らの意思で「効率的な」情報取得を選んでいるかのように見せかけ、その根底にある「理解の困難さ」や「ストレス」という現実を覆い隠してしまっているのです。

さらに、彼らより上の世代は、「Z世代を理解できない古臭い大人」になりたくないという自己保身の欲求から、彼らの行動を都合よく解釈する誘惑に駆られたのかもしれません。


よく「長文を読む時間を惜しみ、短文やSNSでのコミュニケーションが中心になることで、読解力に必要な長文を読み解く練習が不足する」と言われますが、むしろ逆で、すでに読解力がないために短文やSNSでのコミュニケーションに走る、と考えた方が自然です。

彼の国の大統領も、これかも知れません。



Z世代は情報リテラシーが高いのか?


Z世代がオールドメディア、特に新聞記事を読まず、信頼せず、情報をSNSから取得すると言われますが、これも「タイパという誤謬」で解釈すればその理由が明白になります。


新聞記事とSNS言説の構造の違い

新聞記事は通常、複数の情報源に基づく事実確認、複雑な背景説明、そして論理的な因果関係や多角的な視点を含む形で構成されています。これらを正確に理解するには、文章全体を注意深く読み込み、行間や文脈を把握する高度な読解力が求められます。一方、SNSに流れてくる言説は、多くの場合、短いフレーズ、感情的な言葉、視覚的な要素が中心であり、瞬時に理解できるシンプルさが特徴です。複雑な背景や論理は排除され、直感的に「わかる」ように設計されています。


読解力とメディア選択

もし、Z世代が、日常的に触れるSNSのようなシンプルな構造の情報を好む傾向にあるとすれば、それは彼らが複雑な文章構造を持つ新聞記事を「理解しにくい」と感じているためである可能性が十分に考えられます。理解しにくいものを避け、理解しやすいものに流れるのは、人間として自然な行動とも言えます。彼らが新聞を「信じない」というよりは、「読むのに労力がかかる」「頭に入ってこない」と感じ、結果として敬遠しているのかもしれません。


「Z世代=メディアリテラシーが高い」という誤解の根源

これまで「メディアリテラシーが高い」と表現されてきたのは、彼らがデジタルツールを使いこなし、多様な情報にアクセスできるという「操作能力」や「情報源の多さ」に焦点を当てていたためです。しかし、それは情報の「質」や「深さ」を理解し、批判的に分析する「読解力に基づいたメディアリテラシー」とは異なります。むしろ、読解力の不足が、彼らをSNSの単純な言説へと誘導し、結果的に誤解や分断を招いている可能性を強く示唆しています。



「読解力」とは


読解力とは、面倒でもたくさんの文章を読み、考え、自分の言葉で対話を試みること。それを子供の頃から大人になるまで繰り返すしかありません。時間もかかり、大変面倒で、いわゆるタイパとは対極にある方法です。しかし、本当の意味でのタイパ行動は、自分という演算装置にデータベースを大量に蓄えた後に可能になるものであることを忘れてはなりません。



ビジネス映像制作におけるタイパへの向き合い方


私はショート動画マーケティングに代表される、タイパ重視の視聴者を対象とした映像制作は正直に言って好みません。私の映像制作はシナリオ作りから始まるコンテンツであり、文脈のない映像を好む視聴者には響かないからです。

しかし、私のビジネスである、あくまでビジネスソリューションの達成、解決に貢献する映像は、タイパ志向とは相容れないものです。むしろ、その情報をビジネスに役立てようとする視聴者は、映像から文脈やメッセージを読み取る力を持っているため、そうしたキーパーソンを見出す機会、つまりスクリーニングする映像になっていると自負しています。

つまり、見た人はファンになる映像づくりです。


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