結びに代えて―この仕事を誰が引き受けるのか
- 神野富三

- 2 時間前
- 読了時間: 9分
そして、映像はどんどん短くなった
もう一つ、少し意地の悪いことを書いて終わろうと思います。
いま、世の中では映像の短尺化が進んでいます。
「視聴者は長い映像を見ない」
「最初の数秒で離脱する」
「タイパが重視される」
だから映像も短くする。
もっともな話です。
しかし、映像を作る側から見ると、短尺化にはもう一つの側面があります。
短い映像は、作る側にとっても都合がいいのです。
もちろん、15秒のCMが10分の企業映像より簡単だ、という意味ではありません。短い尺の中へ情報や表現を凝縮する難しさは別にあります。
ここで言っているのは、制作プロジェクトを抱える負担のことです。
10分、20分、30分と尺が長くなれば、扱う情報量が増えます。
カットが増える。
シーンが増える。
撮影対象が増える。
撮影日が増える。
出演者が増える。
確認しなければならない事柄が増える。
そして、それらすべてを一本のストーリーの中で破綻させずに組み立てなければならない。
プロデューサーは、制作期間中、その全体を頭の中に持っています。
ディレクターも同じです。
短尺になれば、その負担はずっと小さくできます。
プロジェクトの期間も短くなる。
関係者も少なくできる。
判断することも減る。
途中で発生する問題も少なくなる。
修正の影響範囲も小さい。
つまり、短尺化は視聴者の要求に応えただけではなく、映像を作る側の負担とストレスも軽くしてくれました。
これは制作側にとって、なかなか居心地のいい変化だったのではないかと思います。
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10分が「長尺」になってしまった
そして、その状態が長く続きました。
いまでは10分程度の映像でも「長尺」と呼ばれることがあります。
私は、この言葉を聞くたびにため息をつきたくなります。
10分の映像を作るには、10分間視聴者を引っ張る構成が必要です。
一つのアイデアだけでは持ちません。
カットをつなぐだけでも持ちません。
カットがあり、シーンがあり、シークエンスがあり、それらを貫くストーリーが必要になる。
撮影、インタビュー、CG、ナレーション、音楽といった異なる要素を、それぞれ適切な場所へ配置しなければならない。
制作期間も長くなり、その間にクライアントとの調整も続きます。
つまり、ここまで書いてきた職業映像制作者としてのプロデューサーやディレクターの仕事が、嫌でも必要になります。
ところが、短尺の仕事ばかりを続けていれば、この能力を使う機会がありません。
使わなければ、育ちません。
結果として、
10分程度の企業映像制作プロジェクトを最初から最後までマネージメントできるプロデューサーやディレクターさえ、以前より少なくなっているのではないか。
私はそんなことを感じています。
短くすることは簡単でも、長く作れるようにはならない
誤解のないように言えば、長い映像の方が偉いわけではありません。
30秒で伝わるものを10分にする必要などありません。
15秒で目的を達成できるなら、15秒にすればいい。
私もそうします。
問題は、
短く作ることしかできない人が、「短い方がいい」と言い始めることです。
本当に30秒が最適だから30秒なのか。
10分を構成する能力がないから30秒なのか。
完成した映像を見ただけでは、なかなか分かりません。
そして「いまは短尺の時代です」という言葉は、その違いを実にうまく隠してくれます。
これは、なかなか便利な言葉です。
世間は短い映像を求める。
制作側も短い方が楽になる。
その結果、長い映像を設計し、長期間の制作を管理できる人が減る。
すると今度は、
「長い映像なんて、もう誰も見ませんよ」
と言う人が増える。
ずいぶん都合よく循環するものだと思います。
それでも、10分の映像を必要とする会社はある
しかし、企業が伝えなければならないことまで短くなったわけではありません。
複雑な技術。
新しい事業。
会社の歴史。
研究成果。
教育や研修。
採用。
社会に説明しなければならない重要なテーマ。
30秒では伝えられないものはいくらでもあります。
そのとき、「長い動画は見られません」と言って終わるのではなく、
では、10分見てもらうためには、どう作ればいいのか。
と考える。
そこにも、「では、どうする」があります。
短尺の時代だからこそ、10分を10分として成立させられる人は、むしろ貴重になるのかもしれません。
そして、その10分を作るために、何カ月にもわたる制作を引き受け、クライアントとスタッフの間に立ち、最後まで全体を持ち続ける。
そんな面倒な仕事を、これから誰がやるのでしょう。
私は、その答えをまだ持っていません。
ただ、長年この仕事をしてきた者として、
こういう仕事があることだけは、伝えておきたい。
それが、この文章を書いたもう一つの理由です。
結び
書き終えて、あらためて思うことがあります。
これから、プロデューサーという仕事をやりたい人は、ますます少なくなるのではないか。
そんな気がしています。
これは「最近の若い人は責任を取りたがらない」といった話ではありません。むしろ、いまの社会が目指している働き方を考えれば、当然のことなのかもしれません。
働く時間を明確にする。職務の範囲を明確にする。一人の人間に過剰な責任を背負わせない。仕事と私生活をきちんと分ける。
どれも正しいことです。
ところが、これまで書いてきたような映像制作のプロデューサーという仕事は、それとは少々相性が悪い。
プロデューサーの仕事は、どこからどこまでなのか
撮影なら、撮影日があります。
編集なら、編集作業があります。
CG制作なら、制作するCGがあります。
ところがプロデューサーの仕事は、境界がはっきりしません。
クライアントから最初の相談が来たところから始まり、企画を考え、見積もり、スタッフを集め、シナリオを作り、撮影を準備し、編集を進め、試写を行い、修正し、納品する。
その間、何かが起これば、だいたいプロデューサーのところへ話が来ます。
撮影場所が使えなくなった。
出演予定者の都合が悪くなった。
予定していたものが撮れない。
予算が変わった。
クライアント社内から新しい意見が出た。
編集してみたら予定した構成では成立しない。
誰かが、
「どうしましょう」
と言う。
そこで、
「では、どうする」
と考えるのがプロデューサーです。
その問題が、自分のミスによって起きたものとは限りません。
クライアント側の事情かもしれない。
スタッフのミスかもしれない。
天候のせいかもしれない。
誰にも予想できなかったことかもしれない。
それでも、仕事そのものは残っています。
映像は完成させなければなりません。
自分がやっていない仕事にも責任を持つ
考えてみれば、因果な仕事です。
プロデューサー自身がカメラを回したわけではありません。
編集もしていません。
CGも作っていない。
それでも、撮影された画に問題があれば考えなければならない。
編集がうまくいかなければ考えなければならない。
CGが意図と違えば直さなければならない。
そしてクライアントから、「どうしてこうなったんですか」と聞かれる側にいます。
そこで、
「カメラマンが悪かったんです」
「エディターが失敗したんです」
と言ったところで、クライアントには関係ありません。
クライアントはカメラマンに発注したのではない。
エディターに発注したのでもない。
制作会社に発注したのです。
結局、「では、どうする」へ戻ってきます。
頭の中の仕事まで、勤務時間では切れない
この仕事には、もう一つ厄介なところがあります。
難しい案件を抱えていると、会社を出た瞬間に頭から消えるわけではありません。
電車の中で突然、解決方法を思いつく。
風呂に入っていて、
「あの構成ならいけるかもしれない」
と思う。
別の映像を見ていて、
「これ、あの案件に使えるな」
と思う。
翌日の撮影が心配なら、天気予報を見る。
夜中まで働け、休日も働け、と言っているのではありません。
むしろ、そんな働き方を前提にしてはいけない時代です。
ただ、私が長年やってきたプロデューサーという仕事には、勤務時間と一緒に頭のスイッチまで切れるとは限らないところがあります。
だから、この仕事を「担当業務」という言葉だけで説明するのは難しいのです。

昔の働き方へ戻るわけにはいかない
かつての映像業界には、長時間働くことを当然とする文化がありました。
徹夜する。休日も働く。若いうちは安い給料で修業する。先輩の仕事を見て覚える。
そうやって職能が継承されてきた面があることは事実です。
しかし、
「俺たちはそうやって覚えた。だから若い人もやれ」
では、この仕事に未来はありません。
一方で、働く時間をきちんと区切り、担当する仕事を明確にし、責任の範囲も明確にしていけば、今度は制作全体を自分の仕事として引き受ける人が育ちにくくなるという難しさもあります。
だから私は思うのです。
これからプロデューサーという仕事を、あえてやりたいと思う人は、かなり稀有な存在になるのではないか、と。
それでも、誰かがやらなければならない
しかし、この仕事そのものがなくなるとは思いません。
企業が、「こういうことを伝えたい」と言う。
まだ映像の形にはなっていない。
誰かがそれを聞き、理解し、整理し、方法を考える。
人を集め、予算を組み、作り始める。
途中で予定が崩れれば、別の方法を考える。
そして最後には、
「この条件なら、こうしましょう」
と言って、一本の映像として完成させる。
技術が変わっても、AIが進歩しても、少なくとも当面、この役割は残るでしょう。
問題は、誰がそれを引き受けるのかです。
昔のような働き方には戻れない。
戻るべきでもない。
だから、この仕事を次の世代へ残したいのであれば、昔のプロデューサーをそのまま再生産するのではなく、いまの時代に職業として成立するプロデューサーのあり方を考えなければならない。
その答えを、私はまだ持っていません。
ただ、長年この仕事をしてきた者として、
こういう仕事があることだけは、伝えておきたい。
それが、この文章を書いたもう一つの理由です。
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