「パンアップ」は俗語なのか? パンとティルト、そのカメラワークの歴史
- 神野富三

- 12 分前
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「縦パン俗語論」を検証する
カメラを上下方向に振るカメラワークを、何と呼ぶでしょうか。日本の映像制作現場では、上方向なら「パンアップ」、下方向なら「パンダウン」、総称して「縦パン」と呼んできました。
ところが現在、映像制作の教則サイトなどを調べると、「左右に振るのがパン、上下に振るのがティルト」「パンアップ、パンダウン、縦パンは俗称」「正式にはティルトアップ、ティルトダウン」という説明を目にすることがあります。
たしかに、カメラや雲台の機構として考えれば、角度調整はPanとTiltに区別されます。水平方向に回転する軸がPan、垂直方向に回転する軸がTiltです。しかし、だからといって「パンアップ/パンダウンは俗語だった」というのは、日本の映像制作業界を知らなさすぎます。

2009年『映像制作ハンドブック』の記述
2009年、玄光社(雑誌ビデオサロンの出版社)から『映像制作ハンドブック』という映像制作の教則本が出版されています。原稿を制作したのはトムソン・カノープス株式会社。映像編集ソフトEDIUSなどで知られたカノープスを前身とする企業です。
同書では「Tilt(ティルト)」について、カメラを垂直方向に振ることであり、「タテ・パン」「パン・アップ」「パン・ダウン」は俗に使われる言葉で、ティルトが正しい名称である、という趣旨の説明がされています。
この記述の元になった文章は、現在もEDIUS関連サイトに残っています。その映像制作講座の「カメラ・ワーク」には、次のように書かれています。
カメラを垂直方向に振ることを、ティルト(Tilt)と呼んでいます。俗に、タテ・パンとか、パン・アップ、パン・ダウンとも言われますが、ティルトが正しい名称です。
『映像制作ハンドブック』は、このPIMOPICを書籍化したものです。東京都立図書館の書誌にも、「映像制作情報サイト『EDIUS.JP』(今は削除されています)内のコンテンツ『PIMOPIC』を書籍化」と明記されています。
したがって、少なくとも2000年代にはすでに、
Pan=水平、Tilt=垂直であり、パンアップ/パンダウンは俗称
という説明が、デジタル映像制作の教則コンテンツに登場していたことになります。
しかし、同時代の別の資料を見ると・・・
専門家は「カメラワーク:パンアップ」と書いていた
2009年に発刊された『ハイビジョン・システム評価用標準動画像 第2版』は、映像情報メディア学会と電波産業会(ARIB)の共同作業によって制作された、映像システム評価用の標準動画像です。NHK財団も現在、この資料を頒布しています。これは一般向けの撮影入門書ではありません。ハイビジョン機器の研究開発、画質評価、システム評価などに用いられる専門資料です。
その解説書には、
No.104 紅葉(パンアップ)Red leaves (pan up)
No.106 紅葉(パンダウン)Red leaves (pan down)
というシーケンス名が正式に採用されています。
さらにNo.104の解説には、「左斜め上方にパンアップ」「カメラのパンアップによる動き」と記載されています。
No.106では、「カメラが下方にパンして」と説明され、撮影データ欄にも、
カメラワーク パンダウン
と明記されています。
しかも、この紅葉の映像の撮影日は2008年12月4日です。
つまり、
2008年撮影・放送映像技術系の標準資料→ 「パンアップ/パンダウン」を正式なカメラワーク名として使用
2009年・EDIUS系教則書→ 「パンアップ/パンダウンは俗、ティルトが正しい」
という、ほぼ正反対の記述が隣り合って存在していたことになります。少なくとも2009年当時、日本の映像専門家の間で「上下方向は正式にはTiltで統一されていた」と考えることはできません。
1990年代の映画制作の現場でも「パンダウン」
さらに時代を遡ってみます。東京国立近代美術館フィルムセンター、現在の国立映画アーカイブが1997年に開催した「映画製作専門家養成講座―日本映画の技と匠―」の記録が残っています。これは映画美術家の木村威夫氏ら、長年日本映画の制作現場に携わってきた職業人による講座です。
こうした映画制作の職業人の証言の中でも、「パンダウン」は撮影現場の言葉として自然に登場します。つまり、「Panは本来横方向なのだから、上下にPanという言葉を使うのは素人の俗語だった」という歴史像とは合いません。
1999年には映像研究の論文にも登場する
1999年発行の日本映像学会『映像学』第62号にも、パンアップ、パンダウン、そして上下方向のパンを扱う記述が確認できます。これは撮影機材の説明書ではなく、映像表現そのものを論じる文脈です。ここでも「パン」は単に「雲台の水平回転軸」を意味する言葉として使われているわけではありません。
この資料は、Panという言葉が映像上のカメラ運動を表現する語として用いられていたことを考えるうえで興味深い資料です。
2001年、撮影監督・高間賢治氏も「パンダウン」
2001年には、撮影監督の高間賢治氏が、三谷幸喜監督『みんなのいえ』の撮影について語った資料があります。高間氏は日本映画の第一線で活動してきた撮影監督です。ここでも上下方向のカメラ操作を説明する語として「パンダウン」が使われています。
「俗語だから一般の人が使っていた」という例ではなく、職業撮影者自身の語彙として存在している点が重要です。
2002年の映画製作専門家養成講座にも「パンダウン」
2002年に開催された国立映画アーカイブ系の「映画製作専門家養成講座」では、撮影監督・川又昻氏らが映画撮影について語っています。そこでも、ショットの説明に「パンダウン」が使われています。
これもまた、映画撮影の専門家の間で「パンダウン」が普通のカメラワーク語として存在していたことを示す資料です。
ニュース映画の撮影現場にも残る「パンアップ/パンダウン」
ニュース映画撮影に携わった西村健治氏は、1966年の第5回アジア大会取材について、後年の回想で次のような撮影指示を記しています。
「すべての塔の頭に青空からパンダウンして下さい」
これに対して西村氏は、
「止めから青空へパンアップすれば……」
と提案したといいます。
これは1966年当時に印刷された一次資料ではなく、後年の回想です。その点には注意が必要です。しかし、ニュース映画の撮影を職業としていた人物の記憶の中で、「パンアップ」「パンダウン」が撮影者同士の自然な職業語として存在していることは読み取れます。しかも、ここでは監督からカメラマンへの具体的な撮影指示として使われています。
ソニーは「パンニング=左右・上下」と説明していた
さらに興味深いのが、ソニーの旧「ビデオ撮影講座」です。そこではパンニングについて、
カメラを左右、上下に振る撮影もあります。それが「パンニング」です。
と説明されています。
さらに、
上下にカメラを振ることをティルティングとも言いますが、上に振ることを「パンアップ」、下に振ることを「パンダウン」という使われ方が多いようです。
としています。
ここでは、
Pan=水平Tilt=垂直
という排他的な関係にはなっていません。
まず「パンニング」というカメラワークがあり、その方向によって「右パン」「左パン」「パンアップ」「パンダウン」と呼ぶ。そのうえで、上下方向については「ティルティングとも言う」と説明しています。
これはPIMOPICの、
「ティルトが正しく、パンアップは俗」
という説明とは明らかに異なります。
なお、現在のソニーの撮影講座では、Pan=左右、Tilt=上下という分類に変わり、「縦パン」と呼ばれることもある、という説明になっています。
旧講座と現在の講座を比較すること自体、用語認識の変化を見る興味深い資料になります。
PanとTiltは、もともと何を区別しているのか
ここで重要になるのが、機構としてのPan/Tiltと、映像表現としてのパンニングを区別することです。カメラを載せる雲台には、水平方向に回転する軸と垂直方向に回転する軸があります。機械の構造を説明するのであれば、
Pan=水平方向の回転Tilt=垂直方向の回転
という分類は合理的です。
現在のPTZカメラやリモート雲台、3軸ジンバルなどでは、さらに明瞭です。
Pan / Tilt / Roll
という名称で、それぞれ異なる回転軸やモーターを制御します。この意味で「Tiltは上下方向」という説明に何の問題もありません。しかし、撮影技術における「パン」は、必ずしも雲台のPan軸を意味してきたわけではありません。
たとえば、「人物の手元から顔へパンアップする」という指示は、機械のどの軸を回転させるかを指示しているのではありません。手元を見せ、そこから画面を上へ移動させ、最後に顔を見せる。
一つのショットの中で視線をどのように移動させ、何をどの順番で見せるかという映像表現の指示です。
このカメラワークとしての「パン」と、機械の運動軸としての「Pan」を同じ定義で扱うと、Pan軸は水平にしか動かない。だから、「Panは横である」となる。すると、「上下はTiltである」となり、「Pan upという言葉は論理的におかしい」となる。さらに、「したがってパンアップ/パンダウンは俗語であり、正しくはTiltである」という結論に至ります。これは正しい推論でしょうか。
英語圏のテレビ制作でもPan up / Pan downは使われていた
「パンアップ」は日本人が英語を間違えて作った言葉だった、と考えることもできません。
1962年のテレビ制作技術書 Techniques of Television Production では、上下方向の運動をTiltと説明しながら、テレビ制作ではTilt shotもしばしばPanと呼ばれ、ディレクターがpan up / pan downと指示することが説明されています。
別の古いテレビ制作教本 Television Primer of Production and Direction にも、Tilt up/downについて、テレビスタジオによっては「pan up」「pan down」と呼ばれる旨の記述があります。
また、The Television Program: Its Direction and Production では、カメラ操作のキューとして、
Pan upPan downPan leftPan right
が並べられ、垂直方向をTiltと表現する場合もある、と補足されています。
つまり、技術分類としてPan/Tiltを区別する考え方が存在していた一方で、テレビ制作の現場ではPan up/downという職業語も存在していました。
この事実だけでも、
Pan=横だからPan upは誤り
という説明を映像制作史全体へ適用することはできません。
「ティルトが正しい」という説明はいつ生まれたのか
これまで確認できた日本の資料を年代順に並べると。
時期 | 資料 | 確認できる用法 |
1960年代の現場を後年回想 | ニュース映画撮影者・西村健治氏 | パンアップ/パンダウン |
1997年 | 映画製作専門家養成講座 | パンダウン |
1999年 | 日本映像学会『映像学』 | パンアップ/パンダウン等 |
2001年 | 撮影監督・高間賢治氏 | パンダウン |
2002年 | 映画製作専門家養成講座 | パンダウン |
2000年代 | ソニー旧「ビデオ撮影講座」 | パンニング=左右・上下、パンアップ/パンダウン |
2008年撮影 | ハイビジョン・システム評価用標準動画像 | 正式なカメラワーク名としてパンアップ/パンダウン |
2009年以前 | EDIUS.JP「PIMOPIC」 | パンアップ等は俗、Tiltが正しい |
2009年 | 『映像制作ハンドブック』 | PIMOPICを書籍化 |
ここから少なくとも一つ言えることがあります。
「昔は正しくTiltと呼んでいたが、現場で俗にパンアップと呼ばれるようになった」という歴史ではありません。
むしろ映画、ニュース、テレビ、放送技術などの世界では、「パンアップ/パンダウン」が長期間にわたって職業語として使われています。その一方で、Pan/Tiltという機械的な運動分類も以前から存在していました。つまり、機構としてのPan / Tiltと、カメラワークとしてのPan / Pan up / Pan downが併存していました。
デジタル撮影機器の普及でTiltが前面に出てきた
では、なぜ現在は「Pan=横、Tilt=縦」という説明を頻繁に見るのでしょうか。一つの背景として考えられるのが、撮影機器のデジタル化です。PTZカメラ、電動雲台、リモートヘッド、そして特に3軸ジンバルが普及すると、撮影者自身が、
PAN / TILT / ROLL
という文字を頻繁に目にするようになりました。
これらは映像表現の名称ではなく、機器を制御するための軸名称です。デジタル機器ではさらに、Tilt SpeedPan SpeedTilt SmoothnessPan Followなど、PanとTiltを厳密に区別したパラメータが画面上に表示されます。
こうした環境で撮影技術を学んだ人にとって、
Pan=横、Tilt=縦
は非常に自然な理解です。問題は、それを過去の撮影現場で使われてきたカメラワークの言葉にまで適用してしまうことです。
さらに、パンニングそのものが減っている
もう一つ無視できない変化があります。
現代の映像制作では、古典的なパンニングというカメラワークそのものを使う機会が減っています。フィックスで複数のショットを撮って編集でつなぐ。ジンバルでカメラ自体を移動する。スライダーやドローンを使う。
かつてなら一つのショットの中でパンニングによって見せていたものを、別の方法で表現できるようになりました。高速ズームや高速パンが、ある時代の映画やテレビを想起させる表現になったことも無関係ではないでしょう。
撮影者にとって「パン」という言葉が、日常的な映像表現よりも、ジンバルやPTZの「Pan軸」として接する言葉になれば、「Panは横なのだから、Pan upはおかしい」という感覚が生まれるのも不思議ではありません。
ディレクターとカメラマンの共通語だった
さらに現在では、撮影現場のあり方そのものも変わりました。かつてディレクターとカメラマンが明確に分業していた現場では、
「ここからパンアップ」
「看板からパンダウンして入口まで」
「右へパンして人物を入れて」
といった言葉によって、ディレクターがカメラマンへショットの演出を伝えていました。パンアップ/パンダウンは、単なるカメラ操作の名称ではありません。
演出側と撮影側が映像表現を共有するための職業語でもあったのです。
現在はディレクター自身がカメラを持つ現場も増え、そもそもカメラワークを言葉にして他者へ伝える必要がない撮影も少なくありません。その結果、言葉だけでなく、その言葉を必要としていた撮影文化そのものが薄れている可能性があります。
パンアップ/パンダウンを「俗語」とする根拠は乏しい
もちろん、上下方向のカメラ運動をTiltと呼ぶことは間違いではありません。
現在、Tilt upTilt down と呼ぶこと自体、何の問題もありません。
しかし、それとは別に、パンアップパンダウン縦パンという言葉が、日本の映画・テレビ・ニュース・ビデオ制作の現場で長年にわたって使われてきた事実があります。
さらに英語圏のテレビ制作にもPan up / Pan downの歴史的用例があります。したがって、
「正式にはTiltであり、パンアップ/パンダウンは俗語である」
と一方を正規、一方を俗語として裁定することには、十分な歴史的根拠がありません。
より正確に説明するなら、
カメラや雲台の運動機構を分類する場合、水平回転をPan、垂直回転をTiltと呼ぶ。一方、映画やテレビなどの撮影現場では、上下方向を含めてパンニングというカメラワークとして扱い、「パンアップ」「パンダウン」「縦パン」と呼ぶ職業的慣習が長く存在してきた。
ということになるでしょう。
「間違った言葉」ではなく、違う体系の言葉だった
今回この問題を調べていて興味深かったのは、「ティルト」という言葉が新しく登場したわけではないことです。Tiltは以前から存在していました。Pan/Tiltという機械的な分類も以前から存在していました。そしてPan up / Pan downも以前から存在していた。二つの体系が併存していたのです。
それがいつしか、Pan=横↓上下=Tilt↓Pan up/downは論理的におかしい↓したがってパンアップ/パンダウンは俗語という「正誤」の問題に置き換えられた。
少なくとも今回確認できた資料からは、この“正誤化”を日本の映画・テレビ撮影の伝統的な用語体系にまで遡らせることはできません。
むしろ2000年代のデジタル映像教育やWeb上の教則コンテンツが普及していく時期に、この説明が目立つようになった可能性があります。ただし、1970~90年代の撮影技術書には、まだWeb上で全文を確認できないものが数多くあります。そのため「この時期に初めて俗語説が登場した」と断定できる段階にはありません。
それでも、一つだけはかなり明確です。
パンアップ/パンダウンは、撮影を知らない人が勝手に作った俗語ではありません。
映画、テレビ、ニュース、放送技術の現場で、職業映像制作者たちが実際に使い続けてきた言葉です。「Tiltという言葉が正しいか」と「パンアップという言葉が俗語か」は、そもそも別の問題なのです。



