top of page

完璧なのに「無意味」なシネマティック動画の正体

技術では越えられない、ある一線


「映画みたいに綺麗!」「色味が最高にシネマティック!」

そう言われるようなデジイチ(※)で撮った動画なのに、なぜか自分の心は動かない。構図は凝っていて、Log撮影後のグレーディングコントラストも色相も完璧に追い込まれている。フレームレートやシャッタースピードもルール通り。装置としてのカメラは正しく動いている。なのに——少しも響かない。

近年、こうした動画を目にする機会が増えました。


※シネマティック撮影は、当初はデジタル一眼レフカメラ(DSLR)が主流でしたが、現在ではミラーレス一眼カメラ(MILC)が主流です。しかし、従来の映像制作業界内ではDSLR時代からの名残で、これらの写真用カメラを使った動画撮影機材全般を包括して「デジイチ」と呼ぶ傾向が残っています。


シネマティックに映る着物女性


整っているけれど“無意味”な映像の違和感


整っているのに“無意味”。この違和感は、主に以下の点にあります。


主題に個性がない

背景を極端にぼかしただけで、主題に「なぜ撮ったのか」という意図が見えない。


模倣の匂いがする

YouTubeチュートリアル通りに施されたグレーディングで、誰かの映画の色味を真似ただけになっている。


色がどこか作り物っぽい

彩度を抑え、コントラストを深くするなど、「シネマティック」の典型に無理やり押し込めた人工的な色調。


現代のカメラやソフト、そして情報源は優秀で、誰でも“それらしい”シネマティック動画を作れますが、そのぶんつまらない動画が増えました。では、その“つまらなさ”の正体は何なのか。


映像は、突き詰めればコミュニケーションです。

撮る人と、観る人。表現者と、受け取り手。そのあいだに流れる感情の往復こそが、ビジュアルメディアの本質です。技術だけで成立している画は、どれほど美しくても、無味無臭で空虚です。



私の職業的バイアス—映像制作者の目が探す「判断の痕跡」


映像制作を仕事にしていると、画を見た瞬間、「この人は何を捉えようとしていたのか?」を探りにいってしまうクセがあります。

私たちが画を見るとき、最初に探してしまうのは「主題への入り口」です。

ところが、その入り口が見つからない画に出会うと、どうしても違和感が生まれます。技術が整っていても、整えられた要素(例えば、シネマスコープアスペクト比、特定の色温度、浅い被写界深度)同士に“判断の筋道”がなく、ただ並んでいるだけに見えてしまいます。


私が敏感になってしまうのは、シネマティックなルック(見た目)そのものではありません。撮った人が何を見ようとしてシューティングしたのか、ディレクターがどんな動画がつくりたかったのか、その「判断の跡」が残っているかどうかです。意図が拾えない画に対しては、必要以上に厳しくなってしまう。整っているようで、実際には「何を基準にシネマティックに整えたのか」が見えてこない場合、そこを「欠落」として即座に認識してしまうのです。



模倣の限界と、「ゆらぎ」の重要性


映像・撮影技能の習得は模倣から始まります。しかし、模倣には越えられない壁があります。それは、撮った人の「生の感情」を映すことです。技術やグレーディングのプリセットは再現できても、撮影者の価値観や人生観から滲み出る「生の感情≒ささくれ」は再現できません。この「ささくれ」これこそが、映像の深みになる部分です。


良い映像には、必ず小さな「ささくれ(人間の気配、感情)」があります。それは撮影者と被写体(たとえそれが建物や風景でも)の関係性と言い換えることができます。

それは機材や流行のグレーディングではなく、人間の生身の感覚から生まれるものです。どれだけテクノロジーが進化しても、この「人間の気配」だけは人間にしか作れません。



技術習得のその先に、ようやく“本当のスタート”がある


模倣で技術を身につけたら、次は自分の心をどう映像に映すかという段階に進まなければなりません。今の時代、機材やソフト、そして「シネマティック」なルックの情報は誰でも手に入ります。マニュアル通りにやればシネマティックはいくらでも作れる。

だからこそ、撮り手の内側にあるものを表現に乗せられるかが勝負になります。

ここで、撮り手の「意図」と「制御」について考えます。



表現者の「意図」と「制御」


プロの映像制作者は、捉えたいテーマがあり、被写体がそれを表出する瞬間を意図的に制御する技術を持っています。私が探す「判断の跡」とは、まさにこの意図的な制御の結果です。


一方、アマチュアには二つのパターンがあります。


テーマははっきりしているが、それを表出するイメージができていない場合:

この場合、テーマという心の炎はあります。技術は未熟でも、たくさん撮って、偶発的に生まれた画の中から「これだ!」と自分の心が強く反応する瞬間を見つけることができます。再現性はないにせよ、心を映す可能性を秘めています。


テーマ自体もはっきりしていない、まして、被写体もイメージしていない場合:

この場合、そもそも映像に対する愛情がありません。表現したい心がない状態では、心の気配が宿る画が生まれることはありません。心が動いていない人間が、他人の心を動かす映像を作ることはできません。


「心の気配を映す」とは、すなわち、技術の先に存在する意図的な「制御」と、その根幹にある「愛情」に尽きるのです。



「感じる映像」——観る人の内面をそっと揺らすもの


映像の価値は“感じるかどうか”に尽きると思います。

ただ綺麗なだけではなく、観る人の内側の何か——記憶、痛み、憧れ、寂しさ、希望——そういったものがふっと呼び起こされる瞬間。そこに映像の本当の力があるのだと思います。

万人に刺さる必要はありません。ただ、誰か一人の心に深く触れることがあるなら、その映像は十分に価値がある。

すなわち、私が感じるところの「無意味なシネマティック動画」も、人によっては「感じる動画」である可能性があるでしょう。ですから、必ずしも無価値というわけではありません。



人間同士のコミュニケーションと同じ構造


これは人と人のコミュニケーションとまったく同じ構造です。当たり障りのない言葉、場を滑らかにするだけの無難な会話からは、本当の共感は生まれません。映像もまったく同じ。“無難”な画には、心は動かないのです。いっぽうで無難であることに安らぎを感じる人もいるかも知れません。すなわち、映像に意味など求めない人たちです。



感じる映像づくり——私がずっと目指しているもの


しかし私は、自分が作る映像もは必ず「感じてもらうこと」を目標にしています。美しく整えることよりも、テクニカルに優れることよりも、そこに、撮った人間、つくった人間の「心の気配」が宿っている事を大切にしています。


私の職業はVP制作であり、会社や団体が施主・企画者となる映像を制作しています。しかし、企業PRであったり、技術解説であったり、採用動画であっても、その根底には視聴者の心が、ふっと揺れたり、温かくなったり、少し痛くなったり、救われたり——そういう変化を生む映像をつくりたいと想っています。それでこそ「届く映像」だからです。


「この映像に心は映っているか?」

その問いに誠実であり続けること。

それが、映像制作を続ける私の矜持です。

【関連記事】


【執筆者プロフィール】

株式会社SynApps 代表取締役/プロデューサー。名古屋を中心に、地域企業や団体のBtoB分野の映像制作を専門とする。プロデューサー/シナリオライターとして35年、ディレクター/エディターとして20年の実績を持つ。(2025年12月現在)

株式会社SynApps 会社概要はこちら → [当社について]  [当社の特徴]  [当社の実績]

コメント


bottom of page