なぜ「おかしい」のか|TrivagoのCMから考える“モンタージュ思考”
現在放送されているトリバゴのテレビCMに、女性3人がホテルのバルコニーで横になりながら会話するものがあります。
その中で、宿泊料金について「3万8000円」「1万9000円」といった違いが示され、トリバゴで比較することの有用性が訴求されています。
同じホテルでも、予約サイトによって料金が違う。だから予約前に比較した方がよい。
広告として伝えたいことは明快です。

ところが、何かがおかしい
女性3人は同じホテルに滞在し、同じバルコニーでくつろいでいます。服装や距離感、会話の様子から見ても、たまたま居合わせた他人には見えません。普通に見れば、友人同士で旅行に来ていると受け取るでしょう。
すると、その前段階が自然に想像されます。
旅行先を相談し、ホテルを選び、予約する。その過程で宿泊料金についても、何らかの情報共有があったはずです。ところがCMでは、宿泊後と思われる場面になって初めて、3人の間で大きな料金差が判明したように描かれています。
3人がバラバラに、一つの部屋を予約したのでしょうか。
(実は3人は、それぞれ別の部屋に宿泊していて、チェックイン後に一人の部屋に集まった・・・という見方は成立します)
この設定について「不自然ではないか」という意見は、ネット上に多く見られます。
しかし、私が興味を持ったのは、その不自然さそのものではありません。
なぜ私たちは、CMに映っていない「旅行計画」や「予約時の会話」まで勝手に想像するのか。ということです。
映っていないものを、私たちは見ている
映像には、女性3人がバルコニーにいるところしか映っていません。
「この3人は一緒に旅行を計画した」とも、「一緒にホテルを予約した」とも説明されていません。それでも多くの人は、画面にある複数の情報を結びつけ、そこには映っていない出来事を頭の中に作ります。
私は映像技術で言えば、これも一種のモンタージュだと思っています。
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一般にモンタージュというと、異なるショットをつなぐことによって意味を生み出す映像技法を指します。
男が時計を見る。
駅の時計が映る。
誰もいないホームが映る。
この三つを並べれば、「待ち合わせ相手が来ない」と説明しなくても、多くの観客はその意味を読み取ります。意味は、どのショットにも直接映っていません。ショットとショットの関係から、観客の頭の中に生まれています。

モンタージュは1カットの中でも起きる
同じことは、1カットの中でも起きます。
女性3人。
ホテルのバルコニー。
リゾートらしい風景。
親密そうな距離。
くつろいだ様子。
こうした要素を同一画面に置けば、そこから「友人同士の旅行」という意味が生まれます。
言い換えれば、映像を見るという行為には、もともと画面に与えられた情報同士を結びつけ、その間を補う作業が含まれています。
トリバゴのCMで感じる違和感は、台詞そのものにあるというより、この「画面から自然に生成された設定」と、後から与えられる情報との間に整合性が取れていないことから生じています。
なぜ、この企画はそのまま放送されたのか
しかし、さらに興味深いことがあります。このCMは、実際に放送されています。
広告主の担当部署、広告代理店、制作会社、出演者、放送局など、多くの人間の目を経て世に出たはずです。その中で、誰も不自然さに気づかなかったとは考えにくい。むしろ、不自然さを問題としなかった可能性があります。
「同じホテルでも料金は違う」
「トリバゴで比較すれば安い料金を探せる」
この二点が伝われば、CMとして成立すると判断されたのかもしれません。もしそうであるなら、これは単に一つのCMの設定上の問題ではなく、現在の映像コミュニケーションの変化を示しているようにも見えます。
映像はどんどん説明的になっている
近年の映像は、以前にも増して説明的になっています。
映像を見れば分かることをテロップでも示す。
人物の感情をナレーションで説明する。
結論を最初から字幕で提示する。
短時間で確実に情報を伝えることを考えれば、合理的な方法です。一方で、こうした表現が増えるということは、制作者が観客に「情報と情報の間を読んでもらう」ことを以前ほど期待していない、とも考えられます。
映像Aを見せる。
映像Bを見せる。
その関係からCを考えてもらう。
ではなく、
Aはこういう意味です。
Bはこういう意味です。
したがって結論はCです。
という伝え方です。
「モンタージュ思考」は映像だけの話ではない
これは映像に限った話ではないでしょう。
ニュースには見出しがあり、SNSには短い説明があり、検索には要約があり、動画には字幕があります。情報と情報を自分で結びつける前に、意味そのものが提示される機会が増えています。そうした環境の中で、人間の「モンタージュ思考」は少しずつ使われなくなっているのではないか。
ここで言うモンタージュ思考とは、映像編集の技能ではありません。
別々に存在する情報を結びつけ、その間に直接は示されていない意味や因果関係を見つける思考です。
ある人物の現在の姿から過去を想像する。
一つの出来事から、その後に起こることを考える。
二つのニュースを結びつけて背景を考える。
画面の中に映っているものから、画面外の世界を想像する。
これらは、いずれも似た働きをしています。
モンタージュは「観客への信頼」で成り立っている
映像表現において、モンタージュは観客の存在を前提にしています。
制作者が意味を完成させるのではなく、最後の部分を観客に委ねる。そこには、「観客はこの二つを結びつけてくれる」という信頼があります。もしその信頼が失われれば、映像は当然変わります。
伏線は説明されるようになります。
余韻には結論が添えられます。
画面外の出来事は台詞で補われます。
人物の感情には字幕が付きます。
結果として、映像は分かりやすくなるでしょう。
しかしその一方で、観客が自分で意味を作る余地は小さくなります。
トリバゴのCMは「失敗」なのか
私はトリバゴのCMを、失敗したCMだと考えているわけではありません。広告としての目的が、短時間で料金比較の必要性を印象づけることであれば、十分に機能しているとも言えます。
また、この不自然さそのものが記憶に残ることまで意図している可能性も否定できません。
ただ、このCMを見て感じた小さな違和感から、別の問題が見えてきました。
映像の中に存在する情報を、私たちはどこまで互いに結びつけて見ているのか。
画面に映っていない前後の時間まで想像しているのか。
そして制作者は、今もなお、観客がそうしてくれることを前提に映像を作っているのか。
モンタージュとはひとりひとりの「世界の見方」なのかもしれない
モンタージュとは編集技法である以前に、人間が世界を見る方法の一つと言えるのではないか。シンプルに言えば「背景を想像して思考する」ということです。
もしそうだとすれば、モンタージュが使えなくなるということは、単に映像表現の技法が一つ失われることではありません。
映像と映像の「間」に意味を見つけること。
現在から過去や未来を想像すること。
見えているものから、見えていない背景を考えること。
そうした思考そのものが、少しずつ使われなくなるということなのではないでしょうか。
タネあかし
ここまで「このCMはどこかおかしい」と書いてきましたが、実は辻褄の合う見方があります。
19,000円で予約したのは左の女性(赤)。
真ん中の女性(黄)は、このホテルを1泊38,000円だと思っていた。
右の女性(青)は、19,000円と聞いて「安くない?」と驚いているだけです。
黄色の女性は「私は38,000円で予約した」とは言っていません。
つまり、赤の女性が3人分を19,000円で予約していたと考えれば、何の矛盾もありません。
では、なぜ多くの人が「3人で旅行しているのに、なぜ宿泊料金が違うのか」と感じたのでしょう。
ここで、この記事の最初に戻ります。
私たちは映像を、映っているものだけでは見ていません。
女性が3人いる。同じホテルにいる。親しそうに話している。「38,000円」「19,000円」という二つの金額が出てくる。
それらを頭の中でつなぎ、
「それぞれが違う料金で予約した」
という、CMでは一度も説明されていない物語を作ってしまった。
これもまた、モンタージュです。
そして、ここからは推測です。
このCMを制作した人たちは、この誤読が起こることを分かったうえで、あえて説明しなかったのではないか。
もしそうなら、ネット上で繰り返されている「このCM、おかしくない?」という反応も、制作側にとっては想定外ではなかったことになります。
CMの中では嘘をついていない。設定も破綻していない。しかし、情報の置き方によって視聴者に別の物語を作らせる。
そして視聴者自身が、その辻褄について考え始める。
そう考えると、このCMは「モンタージュ思考が失われた時代」の例というより、むしろ、人間がいかにモンタージュせずにはいられないかを利用したCMなのかもしれません。




